脳内整理

脈絡がありません

何か特別なこと 何か現実的なこと

 

今月は主催パーティのVeronicaを皮切りに、資格のトレーニング、イベント、挨拶、イベント、試験、みたいなスケジュールを、馬鹿みたいな量の仕事とともにこなすことになりそう。おかげで日々は発見と感動の連続。私は何かにインスパイアされたとき作品を作ろうと思うから、自分から感動しにいく事を忘れないようにしている。

怒涛の日々の中ではたと立ち止まる瞬間に、「一回止まった方がいいんじゃないか」と思うことがあるけど、あえてその自分をガン無視する。毎日毎日、目の前がチカチカするくらい感情が右往左往してるけど、今はこれでいい。こういうのが足りなかったんだ。1年前までの天井しか見れなかった自分より何倍もマシだと思う。

「親しい友人」から入籍するとの知らせが来た。正直めちゃくちゃビックリした。彼女はちゃんと自分の中に根拠と自信がないとそういう決断を安易にしない人である。白と黒が決まっているのに、もう一度混ぜて灰色にしてから考えるような人で、きっと今回も彼女自身によって徹底的に懸念点が洗い出され、考えて考えて、ちゃんと真っ白になって彼女の中に落とし込まれたのだろう。2人に会ったら心からおめでとうと言いたい。

感動することは日々起こっているが、それを共有する形でアウトプットすることが出来てない気がしてる。要はSNSの発信をサボりがちになってしまってる。投稿へのアクセス数やリアクションを気にしてカリカリするよりはよっぽど健康かもしれないが、これだけ多くの感情になっていることに、自分1人じゃ耐えられない時がある。単に"記録に残したい"という欲望だと思うから、こうやって日々の事を、感情の移ろいをなるべく記録していけたらと思っています。良かったら覗いてな。

イントロの声が泣いてるみたいで良いのさ

Extraordinary (feat. Sharna Bass)

Extraordinary (feat. Sharna Bass)

  • Clean Bandit
  • ダンス
  • ¥255

 

shinsho.shueisha.co.jp

 

今年度のゼミの研究で読んだ文献の一つ。先日の中間報告でかっちりした内容の考察は終わっているので、ここでは思ったことを素直に書きます。非論理的な、感想...とも言えない「かんそー」を書いていこうと思う。特に印象に残った第三章について、そんなにたくさんは書けないと思うけどかきます。

 

【ほんぶんないよう(ざっくり)】

何が書いてある文献なのかというと、インターネット・SNSが利用者の判断にどのような影響を与えているのかということ。本書ではまずインターネット・SNSの仕組みについて解き明かすことからはじまる。

そこで取り上げられている概念として一番印象に残っているのは「フィルターバブル」という現象。これはGoogleFacebookの独自のアルゴリズムによって、利用者の嗜好に合わせたコンテンツを表示し、利用者が「見たくないであろう」情報を表示しないようにすることで、自分が見たい情報しか見られなくなる現象のことだ。

 

著者はこの機能に対し懐疑的であった。これは言い換えればメディア媒体が一人ひとりに合わせた「その人だけのもの」になっていくという仕組みだ。無論それはマーケティングにとって都合が良いことだろう。この仕組みによって私たちは大手メディアにまんまと趣味嗜好を見抜かれ、「あなたへのおすすめ」などによって購買意欲を掻き立てられたり、時には偽情報もクリック数稼ぎのために表示してきたりする。

しかし、そうと知っていながら利用し続ける人が多数いるのが現状である。

 

【感じたこと】

インターネットやSNSの進化の過程で追加されてきた機能の一つに「ミュート・ブロック機能」がある。もはやこれはデジタルネイティブの常識であって、そもそもフィルターバブル以前から人は見たくないものを自らシャットアウトしてきていると思う。

 

インターネットにおいて、見たくないものは見えなくていい。当たり前のことのように感じるけどわたしたちは同時に事実や正しい情報を知りたいとも思うもので、これらを全てインターネットに求めてしまっているというのが問題なのかもしれない。

 

私は今のデジタルメディアの諸問題は基本的に利用者側に起因してると思っていたので、ネットの仕組み自体を批判的に見る著者の主張には気付きもたくさんあったけど、「でも結局インターネットって人間が作り出したものだしな」という考え方に帰着してしまう。

インターネットは水のようなもので、人が求める形にその都度自在に変化しているだけのように思える。使っているのは人間で、人間は感情を持っているのだから、インターネットがぐちゃぐちゃになるのは至極当たり前である。インターネットを人工知能の侵略か何かのように捉える人もいるが、インターネットを人間と対になるように配置し、一概に悪い・危険と揶揄することは実は人間否定でしかないんじゃないだろうか。インターネットはあくまでも私たちが求めたから誕生し、こうなっているだけだという前提を忘れてはいけない気がした。

 

最近読んでいたメディア論関連の本は大体ジャーナリストが書いていて、デジタルメディアに対して批判的な内容のものが多かった。過去の話(歴史)を学ぶ上では参考になったけど、もう少しネットをポジティブに捉えたこれからの話にも目を通したい気持ち。ちょっと非現実的くらいなやつ。

東浩紀の一般意志2.0https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000212243

↑bass rumbleでお世話になってるWANさんがくれたので読んでみようかなーーーおわり

2020/1/10(AM4:00〜6:00頃)の明晰夢

(ものすごくリアルな夢だった。出来事より心境の方が強く心に残ってる感じ。また寝起きで書いているので辻褄がゴミすぎて終わってます。そして夢なので所々不明瞭です。)

 

知り合いに飲みに誘われて豊水すすきので飲んでいた。2、3件くらい行って、なぜかその都度メンバーが変わっていた。

1軒目は集団でワイワイやってた気がするが、忘れた。2軒目のお店では隣でかなり大規模な忘年会か新年会のようなことをしていて、1000人くらいのスーツの人達が低い声で「乾杯」と言って飲み始めていた。拍子はずれに盛り上がってる人もいたが、大体は静かに「早く終われ」という感じで飲んでいたように見えた。私たちはその店の窓際に座ってたんだけど、窓から梅酒の専門店が見えて、今度そこに友達と行ってみたいな〜ということを(他の人と飲んでるにも関わらず)ずっと考えていた。

3軒目でまた別の人とサシ飲みをした。普通に飲んでたらヤクザの若い手下みたいなのが来て私達を拘束し、「交渉相手が来れば解放するが、あと30分で来なければ左脚を切りつける」と言われ、何故か来るわけがないと即希望を捨てた私は、ヤクザの脅威に怯えた顔をしつつも脱走のタイミングをじっと見計らっていた。四肢は自由だった。

30分経った頃、合図のアラームのようなものが鳴り、残念だったなというような事を言いながらヤクザが立ち上がろうとした。その瞬間を目掛けて、そいつの右肩を思い切り蹴って壁に激突させ、ひるんでいる瞬間に逃げた。サシ飲みの相手の事は考える余裕がなくて置いてきてしまったが、あとで絶対助かってその人の事も助けに行こうと強く思った。

夢の中にしては足が早かった。地下のお店に居たがあっという間に地上へ駆け上がり、建物の隙間の路地を通って何とか目を掻い潜って逃げようと思った。

しかし敵は数を増やしてきた。その中にはボスであろう人(今考えてみるとあれはヤクザ映画に出てくる北野武だった)がいて、バイクで私の事を探していた。ヤクザたちは周辺の地理をよく知っていて、私が少しでも相手の顔を見ようとして路地から顔を出そうものなら、目が合って必ず捕まる。見てもいけないし見られてもいけない相手から逃げるのはかなり難しかった。

路地にどんどん突き進んでいくと、周りを鉄網で囲まれた、工場の生産物が置かれている場所に辿り着き、私は鉄網を登ってその中に入った。高く積み上がっているものが沢山あったのでとりあえず隠れられそうだと思った。

しかしそこでもう一人の逃亡者と出会う。その人はヤクザのボスが目の敵にしている主要人物だった。

この人と一緒にいたら捕まる、絶対会いたくないやつに会ってしまったと思った。相手はこちらに対して協力的だったが、こちらは相手に対してあまりそのような態度はとれなかった。渋々行動を共にすることに。

やはり高く積み上がったものの上にいれば見つからないんじゃないかということで、高く積み上がった麻袋(あまり安定していない&かなり高い)の上に乗って静かにしていた。しかし呆気なくボスとその取り巻きに見つかってしまう。ボスが少しずつ近づいてくる。物理的に私達の方が高い所にいるから、何かものを投げたり上から抵抗する手段があると思ったが、ボスがそういうレベルの強さではないということを何故か本能的に悟った。

ボスは見た目こそただのジジイだが、腕力、視力、洞察力が野生並みで逆らったらいつでもその場で殺せる、しかし普段はヘラヘラしてるタイプのヤバいやつだった。おそらくだがピストルやナイフのような凶器さえ持ってないんだろうなと、無知ながらに思った。いつのまにかその場所は倉庫のようなところから組織の書類などが置かれている廃れた施設のような所に変わっていた。

そこからボスの謎の語りがはじまって、私たちはボスの妙にゆったりした歩調に合わせつつ施設内を歩きながらその話を聞いた。もとい、私は話など聞いておらずずっと逃亡のタイミングを見計らっていた。

あまりにもずっと話しているので(そして他の人もボスの話に釘付けなので)そっと離れてもバレないと思い、そっとその場から離れて施設にある別の部屋に移動した。施設内は少し霧がかっていてめちゃくちゃに寒かった。(※起きたら布団が蹴り飛ばされてかかっていませんでした)

別室には洗脳のための経典みたいな本が乱雑に積まれていて、恐怖を感じながらもめくろうとしたその時、薄いピンクの着物を着たメガネの坊さん(少し気が狂っている)が背後から突然現れ、大声で経典を読み始めた。多分経典に洗脳されて成れの果てみたいになって、組織からも放置されていた人なんだなと思った。

大声を聞きつけて群がってくるヤクザ…「何をしている」と静かに聞いてくるボス。

もうこれ以上は逃げられない…もう十分頑張ったし疲れた…と思った瞬間、これは夢だということに本能的に気づき、飛び起きて夢から解放されることができた……

退院初日になんで家でこんな夢見ないといけないんだ〜…

 

この前北野武の「血と骨」っていう素晴らしい胸糞映画を観たんだけど、あれは女子大生が一人で見るレベルの映画じゃなくて、ずっと(多分一生)胸糞悪さが抜けないので多分その影響で夢にまで出てきたんだろうなと…

血と骨」は1930年代の戦争が終わった頃の大阪が舞台の映画。当時大阪には猪飼野地域っていう在日の北朝鮮人が住むスラムみたいな場所があったらしくて、その猪飼野地域で、在日朝鮮人の金俊平っていうとてつもない腕力を持った男が繰り返す暴動や、非人道的な行いの数々、それに巻き込まれる家族親戚らのことがかなり鮮明に描かれている。

多分純粋な女性が1人でこの映画を観たら立ち直れないんじゃないかってくらい、「女って生きる権利ないんか❓」って思わされる映画だった。

あと個人的に主人公の金俊平みたいな、「めっちゃ強くて怒らせたら面倒な奴」っていうのはすごく生理的に苦手だった。というか、シンプルに家族や親戚にこんなやつおったら迷惑すぎる。

この映画から得た教訓は、人への信頼は、暴力や上下関係では構成されないということだ。

例えどんなにその人たちが家族として形を成していたとしても、同じだ。関係的には家族という関係で繋がれているけど、それは離れたくても離れられない関係と言い換えることもできる。例え家庭内で暴力があったとしても、誰か1人が家庭内を支配している環境だったとしても、その環境下にいる以上人はその恐ろしさに気付くことが難しく、何としてでも繋がり続けようとしてしまう。そして、何故か人は人と繋がっていると、その人を助けたり世話をしなければいけないと思い込んでしまう。

"家族だから"助けるし理由なんていらない、考えようによっては恐ろしい思い込みかもしれない。

もっとも、人と人との繋がりから放たれて、人が誰とも関係を持たなくても何不自由なく生きていける時代というのも、考えようによっては恐ろしいことだが。こんなことばかり考えていると、誰に何をどれだけ頼ればいいのかわからなくなる。

話が変わりすぎました。そいじゃ

23日朝は気圧低下に注意

なんか知らんけど、ある時期になると自分より20も30も上の人たちに苦しめられるフェーズがくる。私はそういう時に反抗心を持てず、ただただ悲しくなってしまう。反抗する気持ちがないのだから、一方的な相手の怒りに押し負けているのと一緒だ。

 

最近、ものすごく機嫌の悪い大人や、怒り狂った大人と接しなければならないことが三回ほど立て続けに起こった。挙句、事後に「後から考えたら枝元に非はなかった」「ちょっと言い過ぎた」「あとはこっちでなんとかできるから忘れて」と何事もなかったかのようにされ、いつものように接される。

正当な理由のある怒りじゃなかったとしても、相手が怒る気持ちはとても理解できたし、その感情はいくらいい大人とはいえ仕方のない、本人にだってどうしようもないものなんだと思っていた。しかし、ほとぼりが冷めると人は簡単に「あの時はどうかしてたわ」などとのたまって、当時の感情を忘れようとする。実に理解できない。それはあなたが我を忘れて怒り狂ってまで守ろうとしてたものじゃなかったのか。

 

私が自分を割いて傷ついてまで受け入れた凶暴な言葉たちを、突然なかったことにされても、私の中からはそう簡単にはなくならないから覚悟しておけよ!と強がりを言いたいところだが、結局私には反抗心も手段もない。だから、今回の件で私が本能的にとったその人との距離に従って、その人への信頼値を下げるだけだ。

こうやって誰にも気づかれないように素直で生ぬるく綿密に、人間に対する信頼値は下がったり上がったりする。きっと誰かに妄信的に依存していたりしない限り、誰もがそうなのだろう。だから、簡単に人に感情をぶつけてはいけないし、ぶつけるならそれ相応の信頼が失われる。その人の信頼を失いたくなかったら、全力で言葉を尽くして理解されるべきだろう。

納得してもらえないから怒るのではなく、納得してもらうためには怒ってはいけないのだ。そう考えると人間関係において、"怒"という感情にどれくらい意味があるのだろうか。

 

私は何かに対して怒ったことが人生においてほぼ無く、どちらかというと怒るより先に悲しい気持ちになってしまう全く戦闘力のない人間だ。しかし、自分の"怒"という感情をうまく分析してコントロールしている人というのがいて、そういう人を見ると心底すごいなと思う。とてつもない精神の安定を感じるのだ。如何にして自分が怒るのかを突き詰めていく行為は、自分自身を知るための行為であると思う。

 

そう考えると、何かに対して怒れない自分は、自分のことを半分も理解していないかもしれない。自分の中で"怒"の感情が占める割合が、実はもっと大きいとすれば、もしかしたら本当は、3%くらいしか

 

2019/11/28(16:20〜19:00頃)の明晰夢

(あまり体調がよろしくなく、授業を休んで横になっていた時にウツラウツラと見た夢の話です。三構想くらいに分かれてます。忘れたら嫌だと思って走り書きで書いたので分かりにくかったり所々不明瞭です)

 

①友達がクーポンやポイントにこだわりまくっていて、携帯の画面を見せてきてこれで1ポイント稼げたとか意気揚々としてるのをフーンて感じで見てた。何故かそれをビクドンのソファに寝そべりながら話していて、「甘いものを身体に流し込みたい」「ビクドンの苺みるくが飲みたい」と私が言ったところ友達が苺みるくを知らないというので、何故か近くにあった苺みるくの原液が入った謎のペットボトルを見せ、これは本当に美味しいと熱弁したところ、友達は関心を示してくれた。

 

②なぜか大人数(多分中高の人たち)でボーリング大会をしていて、勝ったか負けたかして先に抜けた私はボーリングの球の流れ着いてくる謎の空間(公園の砂場のモニュメントみたいなとこ)に行って、床に空いてる小さな穴に適切な大きさのカラフルな石をはめ込んだり、窪みにボールを固定させたりして石像オブジェのようなものを作り上げていた。時間が過ぎ、ボーリングの球が転がってきて危ないので終了。控え室のようなところに戻ると、小さい子供(何かしらの生き物?)が何人かいて、急に謎の機材を使って演奏し始めた。最初は何やねんと思っていたがフューチャーベースが流れ始めた途端にその子らのテンションがぶち上がり、私はそのフューチャーベースと光景が本当にあまりにも綺麗だったから溢れる涙を必死に抑えようとした。

 控え室(パソコン室のような場所)にみんなが戻ってきて、機械慣れした数人が前の方の機材で何やらイタズラめいた事をしていた。私もその中にいて一緒にヘラヘラ笑っていたところ、高校の時の卓球部の顧問が明らかに怒った表情で無言で戻ってきたため、私はとっさに「みんなでボーリングをして楽しまなければいけないのに自分は全然関係のないことをして遊んでしまった」と悟り、一気にいたたまれない気持ちになった。

その後、大きな講演会があると言われて夜に場所をホールに移ると、吉田羊がリハーサルをしていた。私はその横を何となく通り過ぎて友達と時間まで駄弁っていた。すると突然あたりがざわめき出し、安倍晋三の講演が始まった。安倍晋三政治学の講義みたいな事を延々と喋っていた。その時は白髪でめちゃめちゃ老けていたから、近くにいた父(なぜ近くにいたのかは知らない)に「なんか総理って思ったより小さくてシュンとしてるね」と言うと父も同調していた。一旦その場は離れてしばらくしてからもう一度安倍晋三講演(笑)を見に行ってみると、今度は白髪は無くなり、少し若返った様子でしっかりと政治について熱弁していた。「みんな自分に余裕がなくなると近くにいる人を責めようとする。卓球やテニスのダブルスでミスをしたパートナーを責めようとすることと一緒だ」というような事を語っており、観衆はなるほどという感じでそれを聴いていた。講演がいい感じに盛り上がってきたところだったのに、演者は急に吉田羊へ切り替わった。吉田羊は彼女独自の精神論のようなことを延々と語り散らし、最後に「この世の水、天、悪、思想、政治、哲学、その他諸々の全部!それは芸術!と突然言い放ち、「それは美しいんだ!」と最後に叫んだ。私はそこで夢から覚め、寝過ぎたことに気づく。

 

見た夢を何かに書き記したりすることは本来あまりしない方がいいみたいです(夢は頭を整理し忘れるためにあるので、覚えていると脳や記憶の容量を消費してしまうためらしい)が、あまりにも明晰な夢だったので…それから寝すぎです

2019/9/27

今日の朝、寝ぼけて布団カバーと一緒に携帯を洗濯してしまった。出勤直前に携帯がないな、と思って一瞬で思い当たった。絶対洗濯機の中にある。だって洗濯機からするはずのない意味のわからない音がしていたから。

 

なんだか私はいつからか、そういう時に慌てたり焦ったりできなくなっている。予想外の衝撃的な出来事に対して心が動揺できなくなっているらしいのだ。

 

平然と、何食わぬ顔で洗濯機を止めて携帯をそこから引っ張り上げて、ボタンを押したらちゃんとついたので「おおw」と言ってそのまま急いで出勤する。の前に、銀行に行かないといけないのでいつもより少し遅れる旨を上司に伝えなければならないと思って、さっきまで洗濯機の中にいた携帯(画面に浸水して異様な光を放っている)で電話をかける。さすがiPhone、問題なく通話が終わり急ぎ足で学費を納めに銀行へ。

 

急いでいるとどこまでも心が焦ってしまって本当にダメなので、近頃は意識的にリラックスするようにしている。出来るだけ信号ではちゃんと息を整えつつ、銀行の待ち時間でしっかり肩の力を抜き、用事を終えた。この時は完全に朝の事件の事は忘れていた。

 

携帯は結構内部まで浸水してるみたいで、時間が経つたびに画面に水が広がっていく。仕事中に「あれは買い換えないとダメだな」と思い、またやる事が増えたと少し落胆。仕事はここ1ヶ月くらい不調で、今日も不調だった。ぐったぐたになって帰宅。

 

30分ほど寝て無理やり起き、大学へ。6限の民法に少し遅刻してしまった。またレジュメを持ってくるのを忘れたし、法学部にあろうことか六法も忘れた。まあ別にレジュメはオンラインで見れるし、法律もググれば出てくる。特に嘆くこともなく遅れた分の板書を写す。今日は相当に疲れているのか、内容が半分くらいしか理解できなかった。まあ物権的法律と債権的法律の違いを踏まえられていれば概ね今日の内容は大丈夫そうだ。7限は雑談だったので寝た。

 

まっすぐ帰宅しようと思ったが何だか家に閉じこもる気分でもなく、平岸のマックまできている(現在ここでブログを書いている)。

 

朝とは比べ物にならないくらいに劣化した自分の携帯をじっと見つめる。3年も使ったんだし、壊れたら買えばいいし、特別な愛着もない。それなのに、時間とともに浸水し、壊れていく自分の携帯を見て何だか本当に、ダメになってしまった。朝の余裕綽々な私は何だったのかと思うほどショックだった。

 

後悔、ショック、人との別れ、その寂しさや衝撃は一人でマックにいる時とか、寝る前とか、夜人気のない道を一人で歩いていてふと空を見上げた時とかに急に襲いかかってくる。いつもそうだ。理屈が不明。なぜか、"私は何もしてないのに"という気持ちになってくる。そして、物事に置いていかれた気分になる。誰のせいでもない(携帯を浸水させたのは私のせいだが)理不尽なことに対して私は耐性がなさすぎる。理不尽なんだから耐性があるほうがおかしいと言われればそうだが…

何で私は感じるべき時に感じるべきことを感じられないのだろう。「失って初めてその大切さに気付く」というレベルのマヌケさではない。失ったその瞬間さえ私はその痛みを感じられなくなってしまった。わからない。本当はものすごく辛いけどそれを感じたくなくて、心が無関心を貫かんとしているのかもしれない。これは逃げだ。痛みを感じたくないから、痛みそれ自体を痛みと認識しないようにしてしまっているのだ。

失ったものが携帯電話ならまだいい、私は大切な人を突然なくしたときもこんな風に逃げてしまうんだとしたら

 

あと5分でも黙ってこんな事を考えていたら本当に動けなくなってしまいそうなのでさっさとやる事をやって寝るか