脳内整理

脈絡がありません

23日朝は気圧低下に注意

なんか知らんけど、ある時期になると自分より20も30も上の人たちに苦しめられるフェーズがくる。私はそういう時に反抗心を持てず、ただただ悲しくなってしまう。反抗する気持ちがないのだから、一方的な相手の怒りに押し負けているのと一緒だ。

 

最近、ものすごく機嫌の悪い大人や、怒り狂った大人と接しなければならないことが三回ほど立て続けに起こった。挙句、事後に「後から考えたら枝元に非はなかった」「ちょっと言い過ぎた」「あとはこっちでなんとかできるから忘れて」と何事もなかったかのようにされ、いつものように接される。

正当な理由のある怒りじゃなかったとしても、相手が怒る気持ちはとても理解できたし、その感情はいくらいい大人とはいえ仕方のない、本人にだってどうしようもないものなんだと思っていた。しかし、ほとぼりが冷めると人は簡単に「あの時はどうかしてたわ」などとのたまって、当時の感情を忘れようとする。実に理解できない。それはあなたが我を忘れて怒り狂ってまで守ろうとしてたものじゃなかったのか。

 

私が自分を割いて傷ついてまで受け入れた凶暴な言葉たちを、突然なかったことにされても、私の中からはそう簡単にはなくならないから覚悟しておけよ!と強がりを言いたいところだが、結局私には反抗心も手段もない。だから、今回の件で私が本能的にとったその人との距離に従って、その人への信頼値を下げるだけだ。

こうやって誰にも気づかれないように素直で生ぬるく綿密に、人間に対する信頼値は下がったり上がったりする。きっと誰かに妄信的に依存していたりしない限り、誰もがそうなのだろう。だから、簡単に人に感情をぶつけてはいけないし、ぶつけるならそれ相応の信頼が失われる。その人の信頼を失いたくなかったら、全力で言葉を尽くして理解されるべきだろう。

納得してもらえないから怒るのではなく、納得してもらうためには怒ってはいけないのだ。そう考えると人間関係において、"怒"という感情にどれくらい意味があるのだろうか。

 

私は何かに対して怒ったことが人生においてほぼ無く、どちらかというと怒るより先に悲しい気持ちになってしまう全く戦闘力のない人間だ。しかし、自分の"怒"という感情をうまく分析してコントロールしている人というのがいて、そういう人を見ると心底すごいなと思う。とてつもない精神の安定を感じるのだ。如何にして自分が怒るのかを突き詰めていく行為は、自分自身を知るための行為であると思う。

 

そう考えると、何かに対して怒れない自分は、自分のことを半分も理解していないかもしれない。自分の中で"怒"の感情が占める割合が、実はもっと大きいとすれば、もしかしたら本当は、3%くらいしか